ひとりごと。
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大人なんだから、自分の行動や言動には責任を持ちなさい!とか聞いたりしません??
よくよく考えてみるとどんな意味なんでしょう。
アサーション的な解釈だと、自分のことについて他に責任転嫁をしたり、被害者的な考え方に陥ってはダメだよ
見たいな考え方になっていくようです。
友達と出かけることになったとします。
自分とは違う人格を持っている他人と一緒に行動するということは、様々な意見の食い違いがあったり、
妥協しなければならない部分があったり、我慢があったり、ときには我慢しきれず思わずキレてしまったり
する時があるのかも知れません。
なぜかというと、自分と他人とは考え方や、嗜好(思考)が違うからです。
どんな料理を食べようか、それではどこのお店に行こうか、食べた後はどうしようか・・・
他人と一緒に過ごすには、自分ひとりで好きなように何でもかんでもできない環境があります。
ここで、「自分はこうしたいんだ!!」と、強く出て、相手に自分の思い通りに妥協させるようなやり方は
"攻撃的なコミュニケーション"と呼ばれ、
「本当はやりたくないんだけれど、相手がしたいというのだから黙って従っておくか」というやり方は
"非主張的なコミュニケーション"と呼ばれ、
"アサーション"というと、自分も相手も両方が尊重され、お互いに良となる解を探っていくものですが、
私たちが陥りやすいものに、非主張的なコミュニケーションの場合の考え方があります。
非主張的なコミュニケーションをする場合はどんな場合になるでしょうか。
もともと内気な人は普段からそういった出来事が頻発しているのかも知れません。
相手に逆らえずに、しぶしぶと従ってしまう場合もあるのかも知れませんね。
ここで大切なのは、
「自分の意にそぐわなかったとしても、その行動をするように決定・判断しているのは自分だ」ということです。
相手のせいで自分は妥協しなければならなかったとか、本当はこんなことやりたくないんだとか、
言い訳を考えれば一杯出てきますが、結局それをやっているのは「自分」であり、相手からさせられたというより
しぶしぶであっても自分でその行動をするように「自分で選んで」いるんですね。
ですから、よく陥りやすいのは
「アイツのせいでこんなことをしている」とか、「やりたくないのに無理やりやらされた」とか、
そのような考え方は、結局他に責任転嫁しているだけで、自分の行動に対して自分で責任が取れていない
と(アサーション的には)言われます。
また、どうせ自分の意見を言ったところで無駄だろうと勝手に判断し、自分の意見を隠して、他人の意見に
従うのは「自分の考え方をも大切にしていない」ということになります。
結局やると決めているのは自分自身なのですから、責任は自分で取らなければなりませんし、それが大人の
行動になっていくのではないでしょうか。
(と、偉そうなことを並べていますが、私も心がけなければならない部分が沢山あります)
ネットを見ていると、いわゆる"自分で責任が取れていない"言動が時々気になります。
たまに愚痴をいいたくなる気持ちもわかりますが、毎日が愚痴ばかりで自分が被害者だというような言い方は
ちょっと考え方を変えたほうがいいのかな~と思います。
「私はこんなに姉妹からの愚痴を聞かなければならないのに」
「家のローンを抱えているのに」
「夫の両親の面倒をみなければならないのに」
・・・などなど、一杯出てきます。
嫌々ながらも姉妹からの愚痴を聞いているのは自分の意思でもあります。
また、家のローンは、自分で家を建てると決めたから建てたもので、他人に命令されて嫌々建てるものでは
ないのではと思います。
夫の両親の面倒は「見なければならない」のではなく、「見てもいい」「見なくてもいい」選択肢の中であえて
「見てもいい」というものを自分で選んでいます。
勿論、「見なくてもいい」を選んだとしても、その場合に発生する諸問題などは自分の責任で抱えなければ
いけないと思います。
意外と被害者のように振舞っていながらも、自分であえてその道を選んでいるのではということが多いような
気がします。
自分で勝手に選んで、そして被害者のように振舞うって、なんだか子供っぽいなあと思ったのです。
普段の言動、頭の中でのひとりごとなど、ちょっとだけ見直してみませんか?
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よくよく考えてみるとどんな意味なんでしょう。
アサーション的な解釈だと、自分のことについて他に責任転嫁をしたり、被害者的な考え方に陥ってはダメだよ
見たいな考え方になっていくようです。
友達と出かけることになったとします。
自分とは違う人格を持っている他人と一緒に行動するということは、様々な意見の食い違いがあったり、
妥協しなければならない部分があったり、我慢があったり、ときには我慢しきれず思わずキレてしまったり
する時があるのかも知れません。
なぜかというと、自分と他人とは考え方や、嗜好(思考)が違うからです。
どんな料理を食べようか、それではどこのお店に行こうか、食べた後はどうしようか・・・
他人と一緒に過ごすには、自分ひとりで好きなように何でもかんでもできない環境があります。
ここで、「自分はこうしたいんだ!!」と、強く出て、相手に自分の思い通りに妥協させるようなやり方は
"攻撃的なコミュニケーション"と呼ばれ、
「本当はやりたくないんだけれど、相手がしたいというのだから黙って従っておくか」というやり方は
"非主張的なコミュニケーション"と呼ばれ、
"アサーション"というと、自分も相手も両方が尊重され、お互いに良となる解を探っていくものですが、
私たちが陥りやすいものに、非主張的なコミュニケーションの場合の考え方があります。
非主張的なコミュニケーションをする場合はどんな場合になるでしょうか。
もともと内気な人は普段からそういった出来事が頻発しているのかも知れません。
相手に逆らえずに、しぶしぶと従ってしまう場合もあるのかも知れませんね。
ここで大切なのは、
「自分の意にそぐわなかったとしても、その行動をするように決定・判断しているのは自分だ」ということです。
相手のせいで自分は妥協しなければならなかったとか、本当はこんなことやりたくないんだとか、
言い訳を考えれば一杯出てきますが、結局それをやっているのは「自分」であり、相手からさせられたというより
しぶしぶであっても自分でその行動をするように「自分で選んで」いるんですね。
ですから、よく陥りやすいのは
「アイツのせいでこんなことをしている」とか、「やりたくないのに無理やりやらされた」とか、
そのような考え方は、結局他に責任転嫁しているだけで、自分の行動に対して自分で責任が取れていない
と(アサーション的には)言われます。
また、どうせ自分の意見を言ったところで無駄だろうと勝手に判断し、自分の意見を隠して、他人の意見に
従うのは「自分の考え方をも大切にしていない」ということになります。
結局やると決めているのは自分自身なのですから、責任は自分で取らなければなりませんし、それが大人の
行動になっていくのではないでしょうか。
(と、偉そうなことを並べていますが、私も心がけなければならない部分が沢山あります)
ネットを見ていると、いわゆる"自分で責任が取れていない"言動が時々気になります。
たまに愚痴をいいたくなる気持ちもわかりますが、毎日が愚痴ばかりで自分が被害者だというような言い方は
ちょっと考え方を変えたほうがいいのかな~と思います。
「私はこんなに姉妹からの愚痴を聞かなければならないのに」
「家のローンを抱えているのに」
「夫の両親の面倒をみなければならないのに」
・・・などなど、一杯出てきます。
嫌々ながらも姉妹からの愚痴を聞いているのは自分の意思でもあります。
また、家のローンは、自分で家を建てると決めたから建てたもので、他人に命令されて嫌々建てるものでは
ないのではと思います。
夫の両親の面倒は「見なければならない」のではなく、「見てもいい」「見なくてもいい」選択肢の中であえて
「見てもいい」というものを自分で選んでいます。
勿論、「見なくてもいい」を選んだとしても、その場合に発生する諸問題などは自分の責任で抱えなければ
いけないと思います。
意外と被害者のように振舞っていながらも、自分であえてその道を選んでいるのではということが多いような
気がします。
自分で勝手に選んで、そして被害者のように振舞うって、なんだか子供っぽいなあと思ったのです。
普段の言動、頭の中でのひとりごとなど、ちょっとだけ見直してみませんか?
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